カテゴリ:忘れぬようにメモ( 11 )

先日このBlogで紹介したチーズケーキの店に立ち寄った時のこと。

店の方がこのBlogの記事を読んで下さったらしく、「感激しました」の一言を添えてお礼を頂いた。

しかも、他の記事も読んで下さったらしく、「書かれたい、と思いました」とまで言って下さった。

非常に有難いことである。

こうして人に感想を言っていただけることで、自分が書いた言葉が「そう取られていたのか」と認識することができる。

読んで下さる全ての方に響く文章はまだ書けないが、こうして、一人でもいいから、良い印象を持っていただいた方を大事にしながら言葉を綴っていきたい。改めてそう思った。

一方で、自分の発した言葉で相手を傷つけてしまったのではないか、という経験もしてしまった。これは改めねばならない。
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つい、そんなセリフを吐きたくなってしまう年代になってしまった。

実際にそう感じることもあるが、併せて、学生時代に目にした一言を思い出す。

「最近の若い者は、と思うようになるのは、自分が歳をとった証拠」

正確に覚えていないが、そういう趣旨の一言であったことは頭に焼き付いている。

言われていたのは、今は亡きVAN先生こと加藤磐郎氏。

合唱の世界に入って初めて出会った「恩師」である。

当時所属していた合唱団に、VAN先生が初めて関わられた演奏会のパンフに掲載されたインタビューの中に見つけた。

ここで言う「歳をとった」には、もしかしたら「今より上へ」の追求をやめた、という意味も込められているのかな、と、今になると思う。自分が過去に追い求めた姿に思いを馳せ、その当時の姿と、今の同世代の姿を照らし合わせ、足りない部分を探し出す。まさか、とは思うが、そうすることによって、自分の優位を示そうとする姿勢があるのかな、とも考えてしまう。

そんなことを考える自分も、「歳をとった」人に含まれてしまうのかもしれないが、私は「今より上へ」の姿勢を忘れているつもりはない。いや、そう見られているとしたら、自分に鞭打たねばならない。

だって、達観したと感じることがまだ何もないから。

自分への合言葉は、引き続き”Go Extra Mile”である。
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1週間ぶりに自宅に帰ってきたら、ポストに貯まった郵便物の中から、1通のはがきが顔をもたげた。

大学時代の恩師からの「かもめーる」だった。

恩師は、ここ何年か、年賀状の代わりにこの時期に近況報告の葉書を下さるのが習慣になっておられる。

葉書いっぱいに印字された近況に、必ず手書きで一言添えて下さる。

今年の一言は、こうだった。

「安定性を欠く時代の流れですが、前向きに着実に仕事に向かうのが重要かと思います。」

ここ半年ほど、色々と思い悩むところがあり、色々な本にすがっていたのが実情だが、シンプルながらこの姿勢が一番大事なのだ、と、今日の葉書で気付かされた。

卒業してからもう18年半経っているが、離れたところから指導を受けた心持になった。


近況に寄れば、恩師は著書を執筆中とのこと。理解できる内容かはわからないが、出版された暁には手にとってみたい。
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本や雑誌で、手帳術に関する本が多く出されている。

手帳やノートの使い方が手探りの状態になっている私は、藁をもすがる思いでそういった出版物に飛びついている。

ここで気をつけなければいけないのは、自分に合いそうな手帳を見つけた、そしてそこに書き始めた、という時点で満足する、という罠に陥らないこと。

手帳に書いた、というところで終わりではなく、書いたものを受け(時には振り返り)、どう行動するかが大事である。

自分への覚書。
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最近、一日の始まりのツイートに「今日も一日一生」と書き続けている。

「一日一生」は、大阿闍梨・酒井雄哉氏の言葉である。このタイトルの本を読んで、「この心がけを忘れてはならない」と思い、書き留めることにしている。

「おはようございます」以外の言葉を決まり文句にツイートしている人を、タイムラインで時々みかけている。今、書いていて思い出すのは、多摩大学教授の久恒啓一さんは「今日も生涯の一日なり」だ。

と、こう書いていて、思い出した言葉があった。
私がフォローしている方で「今日もていねいに生きる」という趣旨をツイートしてる方がいるのである。

思わずハッとした。

毎日を一生懸命に生きる、という思いは、少なからずあったが、「ていねいに」という感覚はあまり持っていなかった。

必死に、かつ大事に、今、という瞬間を生きていく。
ツイートの言葉を変えるつもりはないが、「ていねいに生きる」ことも大事にしていこう。
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リッツカールトンのクレドに登場する「紳士淑女」という言葉。

では、その「紳士淑女」って、一体どんな人を指すのだろう。

身近に、その見本となる人がいる方は、非常にラッキーだと思う。その人を真似て自分の型として身につければよいのだから。

この「紳士淑女」に対して、リッツカールトンの高野登さんは、こんなことを言っておられたそうだ。

紳士淑女とは、いかなる人にも不快な思いをさせないことだ



この一言を聞いて「なるほど」とうなずくことはできても、「では、あなたはそれを実践できているか?」と問われ、「はい」と言い切れる人は、おそらく一握りの人だろう。私自身も、恥ずかしながら「いいえ」である。

日ごろから意識できるよう、手帳にも書きとめておかねばならない一言である。
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「自分に何をしてくれるか」と待つのではなく、
「自分に何ができるか」という姿勢を持ち、行動する。

誰かがやってくることを待つ、答えを与えてくれるのを待つ、というのではだめ。

何事もそうだが、結局は、どれだけ自分から行動することができるか、にかかっている。

書くだけなら簡単だが、なかなか実行できないことであるのは、私自身が痛いほど感じている。
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平日の疲れはたまっていたものの、家にじっとしているのは却って気が重くなる、と思い、京都へと足を運んだ。

目的は、国立近代美術館で催されている玉村方久斗展。住んでいる地域限定の日経新聞のサイト「日経千里コンシェルジュ」で先着30名にチケットをプレゼントされる企画があり、申し込んでいたところ、今週届いたことから、急遽行くことに決めた。

しかも、チケットを見ると、今日はご子息にあたるエッセイスト・画家の玉村豊男氏の講演会があるという。日本画はあまり積極的に観ない私が、この展覧会に出かける決め手となったのは、むしろこの講演があったから、と言っても過言ではない。

玉村豊男氏の名前を知ったのは、7~8年前だろうか。当時愛読していた男性雑誌で、ワインかスローフードの特集が組まれた際、文筆業の傍ら信州で野菜作りをはじめた、ということで印象が残った。だが、その程度で、特に彼の著作を読んだりしたわけではなかった。

ミュージアムショップで、ちょうど彼のエッセイが何冊か並べられていたので購入し、講演が始まる前に数十ページ読んでみた。なかなか面白い。期待を持って開演を待った。

今回は、父・玉村方久斗について語る、というのがお題。しかし、方久斗は、豊男氏が6歳のときに亡くなったため、子供の頃の記憶と、後に自らも絵を描くようになってから調べてわかったことが中心の講演となった。適度にユーモアを交えながら、予定の1時間半はあっという間に過ぎていった。やはり来て良かった。

展覧会の方も非常に興味深いものだった。今回の展示は、平安時代を描いたものが多かった。驚いたのは、物語の絵巻物において、絵だけではなく、文章も自らが書き上げた、ということ。そのために、書の勉強もしていた、とは、豊男氏も講演で語っていた。

絵に興味のある方ばかりでなく、文学に興味のある方でも、恐らく楽しめるのではないか。そんな展覧会だった。
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ここ数年、手当たり次第に色々な本を読んできた。

しかし、その読み方は、1回目を通したら終わり。読書メモを作ったりもしなかったので、気がついたら読んだ中身は忘却の彼方であった。

最近手に取った本で、「良書は何度も繰り返して読まなければならない」ことが説かれていた。

一度読めば頭では分かるが、それを自分のものにするためには、やはり繰り返して読み、その読んで理解した内容を、行動に移してみる。そこまでしなければならない。
(あ、趣味で読んでいる読書は別ですよ。私の場合、何かを学び取ろうとして読むことが殆どですから)

そういえば、歌にしてもそうだ。さっと楽譜を見て「あ、音が取れたね」というレベルでは、音楽は体に入っていない。やはり練習を通して何度も繰り返し歌い、音や歌詞だけでなく、曲の流れまでも、頭で思い出さずとも自然と出てくるくらいに歌い込んでいないと、舞台に立ったときに客席に向かって歌うことなどできない。

繰り返し読み、気になる言葉はメモを取ることで、確かな形で自分の中に記録される。

ここ最近、幸いにして、「繰り返し読んで自分のものにしたい」と思える本何冊かにめぐり合うことができている。早速、読み方を改めてみよう。
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怒っているとき、落ち込んでいるとき、不安になっているときなどに、自分の気持ちだけで現実を決め付けてしまっていることが多い。

周囲を見ているようで、実際は自分の思い込みにあう面だけしか見えなくなっているものらしい。

現実を一方的に決め付けることになっていないかどうか、少し立ち止まって考えてみることも心の健康のためには大切だ。

今日の日経夕刊での慶応大学保健管理センター 大野裕氏の寄稿である。

時々、自分に問いかけることにしよう。
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